※スタジオに入ってマイクに向かうとエンジン全開。
それはもう、震災の時にね、死ぬほど感じましたね。ボランティアを兼ねて炊き出しに行ったり取材に行ったり、30カ所くらい3年ほどの間にお邪魔しましたけど、どこに行っても僕が道上ってわかると話してくれはるんです。
半年後に仮設に入って、あんたの声聞いた時に、ああ今までの生活に戻れるかも知らんなあと思ったとか。家を修復してやっと1年後に戻って来てラジオをつけた時に、ああ普通の暮らしが帰って来たと思ったとか。病院でラジオをつけて、あんたの声が聞こえたら、ああこの人が生きてるんやったら俺も大丈夫かも知らんと思ったとか。
とにかくテレビは電気が戻るまで観られないけど、ラジオはすぐに聞けたというのもあるし。一方でそれはすぐ後か、半年後か、1年後か、人によってわからないですけど、ラジオを聞いた時に、今までの暮らし、普通の暮らし、いつもの暮らしを感じたって、みんな言うてくれはったんですね。
で、それまではちょっとでも新しいニュースとか、今シーズンは何回六甲おろしが歌えるとか(笑)、面白いゲストをとか、て言うことを考えて番組をやってるつもりだったんですけど、震災の時に、毎朝聞いてくださってる方には、ご飯があって味噌汁があってラジオがある。コーヒーがあってパンがあって道上がいるっていう、そういう朝の生活のひとコマの中に置いていただいてるんだっていうことが、実感として初めてわかったんですね。
僕、20年で番組はやめようと思ってたんです、実は。なんぼなんでも34歳で始めて54歳ですからね。60歳には定年ですし。だから20年でやめようと思っていたところに、震災が18年目だったんです。で、それから1年2年と経つうちに、そんなふうなことを多く言われて。そういう人がずっと聞いてくれてはんねやったら、もう声が出なくなるまで、会社が止めろと言うまで、番組をやらせてもらおうかなって思ったのが、いま66歳まで続けて来たきっかけですね(笑)。ほんとに、あの震災がなかったらやめてました。僕は。
震災の時にはこんな話もありました。
淡路島の北淡町に80歳くらいのおばあちゃんが一軒家で住んではって、その家が震災で全壊したんです。昼頃に救助隊の人が家の前を通りかかったら、瓦礫の中からラジオの音が聞こえると。これは誰かいるのと違うかって瓦礫をのけたら、おばあちゃんが見つかって、「おお、生きてるぞ」って。幸いにも救助されたんやそうです。その2日後です。うちのテレビクルーが取材で避難所にうかがって、たまたまそのおばあちゃんにインタビューした。それで帰りがけにおばあちゃんが「おたくは毎日放送か?」って聞かはる。「いえ朝日放送です」って答えると、「朝日放送って、道上さんのおるとこか?」って。「はい、そうです」って言ったら、「私の命の恩人は道上さんやさかいに、よろしゅう言うといてな」って言わはったと。なんでかって言うたら「ラジオがなかったら自分は助からなかった」って。「ラジオの音がしてたから自分は助かったんや」って。「子供は名古屋と東京に一人ずつおるけど、全然電話もつながらないし、どうにもならんかった。ラジオが私を助けてくれたんや」と。で、最後にひと言、「こういうときはあれやね、遠くの親戚より近くのラジオやねぇ!」って言わはったというわけです。あんなにうれしいことはなかったですね。